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オアシスという花を咲かせる種に ―渋谷研一さん―

オアシスという花を咲かせる種に ―渋谷研一さん―  「鳥屋野潟を中心に、人と自然が共存できる空間を創りたいんですよね」と、目を輝かせて語るのは渋谷研一さん。株式会社新潟活版所に勤務する傍ら、新潟市南商工振興会に所属し、新潟の魅力を県内外へ発信するイベントに関わっている。昨年12月で20回目を数えた「2007NIIGATA光のページェント」では副実行委員長を、4月下旬に開催される「2008NIIGATAスプリングフェスティバル」では実行委員長を務める。そして目下の夢は、鳥屋野潟周辺の環境を整備し、大人も子どもも、野鳥や草木や花たちも、共に過ごせる居場所としての公園を創ること。その実現のために、今年2月「鳥屋野潟を考える会」を立ち上げた。「4歳の息子に聞いたんですよ。パパ、公園を創ろうと思うんだけど、どんなのがいい?って。そしたら、すべり台とかブランコが欲しいって。大人が考える公園とは視点が全く異なるんで、あぁそうか、と思いましたね。『憩い』の形ってひとつじゃないんだと。芝生に寝転んで桜を愛でたり水辺で野鳥を眺めたり、遊具や遊歩道や自転車道が整備されていたり、ウッドデッキでお茶を楽しめるようなカフェがあったり、そんなオアシス的で『誰もが居ることのできる場所』があったら素敵だなって。こんなに多くの魅力と可能性に満ち溢れている鳥屋野潟を長年に亘って整備もせずに半ば放置した状態にしておくのは勿体ないでしょ」。


 渋谷さんは大学卒業後、埼玉県川越市のとある印刷所に就職。スーツを着、事務所や取引先を回るのではなく、作業服でインクや汗にまみれる工場での仕事を選んだ。「若いうちに“汗水流して働く”という経験をしておくべきだと思って、ただひたすらに自分の仕事に打ち込んでいたんですが、ある日、自分の住む街に観光客が集まることに気が付きました。この辺に観光名所なんてあったかな?と思って調べてみたら、景観や住み良さを考慮して、乱立する電柱を地下に埋めた街並みや街づくりの視点が素晴らしいとの理由で、方々から人が見学に訪れていたんですね。それをきっかけに“人が住む空間”というものに興味を持ち始めました。」

 29歳で新潟へ戻ってから数年。実に様々な人との出会いがあり、いつしかそれが一つひとつの「点」から「線」になっていることに気づく。しかし知識や興味、交友関係が広がる一方、田舎に対する蔑視を払拭しきれない自分がいることも確かだった。当時の「NIIGATA光のページェント」実行委員長と鳥屋野潟に出掛けた時のこと。ふと、小学生の頃に初めてこの地を訪れた時の衝撃が甦った。子どもながらに、ここに未来を感じたものだ。現在では県立公園も建設され、幾分水質も向上したようだったが、鳥屋野潟を取り巻く全体の環境や印象は殆ど変わらず、むしろ荒廃しているようにも見えた。桜並木の眼下を覆う葦の間に見え隠れする無数のゴミ、細い路地を往来する自動車。自然美と人口醜が混在しているこの空間に、怒りにも似た疑問を感じずにはいられなかった。鳥屋野潟の整備にはなぜか昔から自治体も及び腰だった。周辺住民はもはや諦めている様子。自分の中の何かが強く疼く。『新潟の誇り』―若い時分からずっと胸の中に巣食っていた、田舎への蔑視の裏返し。「新潟に誇りを感じたい。特に次世代にはもっと感じて欲しい」。Uターンから8年。ようやく憑き物が落ちた感覚。感謝の気持ち。新潟の魅力を自分自身が再発見し、発信することをライフワークにしようと心に決めた。

 「“人のため”だなんておこがましい。ただ、多くの笑顔の種になれればいいかな」。地道な調査の結果、複雑だった鳥屋野潟を含む周辺の土地の所有者も次第に分かり、住民の「本当は素敵に生まれ変わって欲しかった。ずっとそう願っていた」との声が追い風となって今、渋谷さんの背中を押す。「壁を作っていたのは田舎に対してではなく、自身に対してだったのかもしれませんね」と照れたように笑う。心の門が開いたことで、これまで出会ってきた多くの人々や数々の出来事が繋がっていき、流れを生んだ。「線」が「円」となり「縁」になったのだ。今は生まれ育った新潟に感謝の気持ちを込めて、笑顔を生むオアシスの創造に情熱を注ぐ。

(2008/03/21 にいがたNPO情報ネット http://www.nponiigata.jp 

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