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骨髄バンクとともに−小師美沙子さん−

骨髄バンクとともに−小師美沙子さん−  小師美沙子(こもろみさこ)さんにあった人は、その暖かい笑顔とやわらかい声で、安心することが出来る。その人柄と熱意で、20年近く、全国的にも注目される新潟の骨髄バンク運動を支えてきた。

 小師さんは新潟市内の高校を卒業後、結婚や子育て、勤めなどで平成元年までボランティアとは無縁の生活を送っていた。そんな小師さんに転機が訪れたのが、1989年(平成元)、高校時代の友人だった金子和子さんの息子のお嫁さんが白血病を発病したと聞いたことだった。そのころ「骨髄移植」が白血病をはじめとする血液難病の有効な治療法として臨床の場に登場していた。しかし、日本には当時公的骨髄バンクはなく、患者さんは個人で高額な検査料を負担して非血縁者間では、数百分の1から数万分の1の確立でしか適合しない骨髄提供ドナーを私費で捜すなど多くの苦労を強いられていた。 
 小師さんは、金子さんの話を聴き「本当に軽い気持ちで」公的骨髄バンクの設立を求める署名活動を手伝うことになった。
 その後、小師さんは金子さんとともに、「新潟骨髄バンク推進連絡会議」の活動を続けていくことになった。簡単な気持ちではじめた活動が重要な位置を占めることになった。

 1991年、衝撃的な事件がおこる。当時聖籠町の高校1年生で、白血病であることを公表していた熊倉瑞穂君が病状の悪化を悲観した母親と心中する事件が起きた。このときも個人でドナー協力者を3000人集めた。その登録会では小師さんも受付を担当していた。しかし、適合者は見つからず、不幸な帰結につながった。この事件などもきっかけとなって、この年の暮れにようやく財団法人「骨髄移植推進財団」が発足し、日本の公的骨髄バンクがスタートした。
 
 そんな変化の中、小師さんは血液医療関係者から「主婦のボランティアの(延長で)は、活動をしていくのが難しくなる。責任を取れる組織にすべき」との助言を受けて、あらたに「にいがた・骨髄バンクを育てる会」(以下、育てる会と略)を1992年11月に発足させた。このとき会長に元新潟日報社長の平山敏雄氏(故人)をむかえ、副会長には金子さん、事務局長には小師さんが就任した。
 しかし、誕生したばかりの「育てる会」には、とにかくお金が足りなかったという。「会の予算が後1か月で底をつく、なんていつも心配していた」。事務局を担当する小師さんは金子さんと二人でポスター・チラシお願い文の三点セットをもって1ヶ月に100近くの企業や行政を回り、ともかく活動資金を集めて回った。「この経験で度胸がついたかも」と笑う。寄付金頼みではいけないということで、イベントや祭りに出店する際には、育てる会の会員手作りによる人形や小物が並ぶようになった。
 1993年、育てる会は新潟県出身の漫画家水島新司さんに、バンクの啓発のためにポスターの作成を依頼したところ、快諾してもらえたことが今も印象に残るという。この水島さんの「ドカベン」を描いた絵は、今も骨髄バンクの啓発に役立っている。さらにこの年、大きな出会いがあった
 平成5年秋、当時7歳だった丹後光祐君を白血病で失った丹後まみこさんとの出会いである。
丹後さんは、光祐君の短い小学校生活で育てていたアサガオの種を、「光祐の生きていた証に」にと育て、育てる会の講演会やイベントで、配りはじめた。この活動がのちに全国的に知られる「命のアサガオ」につながることになった。

 このころ、骨髄バンクを少しでも知ってもらおうとシンポジウムや講演会コンサート、イベント、祭りでの出店など思いつくことはすべておこなってきた。
講演会では今考えると「無茶ばかり」していたと言う。骨髄バンク運動のパイオニアの一人である大谷貴子さん(現NPO法人全国骨髄バンク推進連絡協議会長)の講演を一週間のうち6回も開催して、大谷さんから冗談で「新潟引き回しの刑」といわれたこともあった。
 忙しい活動のため小師さんは車で東奔西走することになった。旧吉川町の雪原を車で走ったときは「生きた心地がしなかった」体験など、冷や冷やすることはたくさんあったという。しかし「お蔭様で事故には遭わずにすんできた」のは幸運だったと話す。
 「家族からは「骨髄バンク教だな」とあきれていました」といわれるほど、朝から晩まで、新潟県内を走り回る日々を90年代の前半まで過ごしてきた。

 その活動は、着実に実を結びはじめた。
 1998年(平成10年)、新潟市で開催されていた「全国都市緑化フェア にいがた緑の物語」が開催された。この79日間の期間中育てる会も、手作り品や「命のアサガオ」の写真を展示し、骨髄バンクへの理解を訴えていた。その会期中の9月9日、秋篠宮妃殿下がこの会場を訪れることになった。
 小師さんと金子さんは、事前に来訪の話を伝達され会の代表として店に詰めていた。当初、秋篠宮妃殿下ご夫妻は店の前を通るだけ、といわれていたのだが、育てる会のブースの前を通られたとき、秋篠宮様から「骨髄バンクの方でしょ」と声をかけられた。びっくりして敬語も使えなかったという。でも骨髄バンクのことを知っておられる様子にうれしくなったという。その後紀子様が、光祐君の写真に目をとめられ「紀子様スマイル」でいろいろとご質問された。会場を後にするとき「大変なお仕事を、なさっていらっしゃるのですよね」とねぎらいの言葉をいただいた。
 「あさがおの本」と「希望のたね」をお渡しすることができた。「お二人に、骨髄バンクのことをご理解いただけたと思うと大変うれしくなった」と小師さんはその日を記憶している。
 育てる会の活動により、ドナー登録についても東堀献血ルームでの受付、集団登録会、献血併行ドナー登録がおこなえるようになり、新潟県は骨髄バンクドナー登録者数(都道府県ごとの人口比)で、全国第3位(2007年5月現在)になった。また、育てる会の会員からドナー提供をおこなう方が増え、患者さんで病を乗り越えた方が結婚するなどうれしい出来事も増えた。 
一方、育てる会も内部でも様々な変化があった。2004年には丹後まみこさんが乳癌の発病と闘病を経験、2005年には平山会長が亡くなり骨髄提供者だった阿部勲さんが会長に就任するなど、17年を超えて続く、育てる会の活動も変わりつつある。

 その小柄な体で育てる会事務局を守ってきた小師さんは、昨年(2006年)11月乳癌が発見され、12月に手術をうけた。その後も治療を続けながら育てる会の事務局長の仕事をつとめている。小師さんは「(手術が)育てる会の活動が忙しくない12月でよかったけれど」と話す。
 今年、日本の公的骨髄バンクは目標としていたドナー登録30万人に到達する見込みである。しかしドナー登録者数を維持できるのか、支援団体のこれからの活動の行方など問題は山積したままだ。「骨髄バンクの活動をどうするか、方向性を見定めるまでは、活動を続けたい」。71歳を迎えた小師さんは今、そう考えている。

「にいがた・骨髄バンクを育てる会」のホームページ
 http://www.h5.dion.ne.jp/~kotuzui/index.htm

(2007/10/15 にいがたNPO情報ネット http://www.nponiigata.jp) 

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